How To Become A Pink Hacker

赤でも白でもない、ピンクなんだ!ピンクは何万通りもあるんだ!

田舎ノマド的なはなし

田舎ノマド的なはなし

今日、喫茶店に行こうと思った。
正式には喫茶店ではない。村が提供しているサロンだ。
そこの珈琲を飲みながら仕事をしようと思ったのだ。

いくつかのやらないといけないこと、資源ゴミを捨てること、スタッドレスタイヤのはきかえを依頼すること、精米しにいくこと、灯油を買いに行くこと、お友だちの息子に我が家の子ども用自転車をあげることを全部まとめてやることにし、帰りは妻の車に乗ろうとした。

さて、資源ゴミを捨て、精米と灯油は妻の車に乗せてあとで帰りに一緒に行くことにし、車屋さんにいってスタッドレスタイヤの履き替えを依頼した。そしてそこで働くお友だちに自転車を渡してきた。

なんと順調なんだろう。
素晴らしい。
今日は快晴で空気もうまい。

車を預けたので徒歩で喫茶店へ。

茶店に入る前に、車がたくさん止まっていてあらこれはと思っていたが、入店してみると「ごめんなさーい」と言われる。
つまり今日も老人会が全席予約をしていて、2時半までしかだめだそうだ。
仕方ないから図書館に移動して、この文章を入力している。
周りには誰もいない。
ここはいつも無人だ。
悲しい。
他の喫茶店は遠いので歩く気はしない。

毎月第4火曜日は予約されているらしい。
そういうのはしょうがないと思う。

わたしは珈琲が飲みたいだけだったけど、いろいろ詰め込みすぎちゃったな。
また行けばいいよねと思う。

もしくは、もう1件、おじいさんおばあさんに影響されないお店があったらなぁと切に願うが、この村で採算がとれるような業態で喫茶店なんて無理だろうなとも思う。

 

小学校卒業式の批判

小学校卒業式の批判

本日、四男が小学校を卒業した。非常にめでたい。 そしてこれが5回目の小学校の卒業式であり、そしてなんと、私はPTA会長として2回卒業式を経験しているため、これで7回小学校の卒業式に参加していることになる。地元議員も真っ青の経験値であると自負している。

小学校の卒業式は、このような流れで進んでいく

  1. 国家斉唱
  2. 校歌斉唱
  3. 卒業証書授与
  4. 学校長挨拶
  5. 来賓挨拶
  6. 在校生から別れの言葉→合唱
  7. 卒業生から別れの言葉→合唱

みたいな感じだ。

いまの学校は非常に少人数で、1クラス16人しかいないので、卒業式は全体で1時間10分ほどだったかと思う。 東京のころの小学校では、だいたい2時間ほどではないだろうか。3クラス80名くらいだったかと思う。

とりあえず、上に書いた流れのうち、1~5はしょうがないと思う。式だもの。 校長先生も村長さんもPTA会長さんも挨拶すればいいと思う。 個人的にはPTA会長の挨拶は必要ないと思う。なので挨拶は2人だ。 この2人には良いことをいっぱい言ってもらいたい。

別れの言葉いらんやろ!!

やれ自主的に考えろだ、自立して行動しろだ、なんやかんや言っているわりには、

「ぼくたちー」 「わたしたちはー」 「そつぎょうしまーす」

「「「そつぎょうしまーす」」」

って全国共通かー!

いまの学校は卒業証書を受け取ったときに、「将来の夢は●●です」みたいなこと言わなくてよかったなと思ったけど、小学校や中学校の卒業式で「将来の夢は●●です」って、これ100000000%挫折感あたえるでしょうが?ねぇ?小学校のときに思ってた夢を叶えられるひとどんだけいると思ってんだーーー!!!!!!!

看護師になりたいだとーーー?? 親にまず看護学校用の貯金をお願いせんかーーーい!

ふぅ、今日のことじゃないことで脱線した。

本当に自由とか自主とか自立とか自尊とか言っているわりには自由を与えてくれないこの教育なんなの?自由惑星同盟だってもっと自由だ!あっ、退職する自由はないけど(含み笑い)

運動会で全力出し切りました!って言わせて大人はなに聞いてるん? 在校生に「憧れの6年生」って言わせて大人はなに聞いてるん? 縦割り社会の形成!縦割り社会の形成以外に役立つことがひとつもありません。 憧れっていうのは、学年で決まるものじゃないでしょ。よく考えて。

例えば自分(36歳)の横に座ってた紳士(70歳くらい)が、マタニティマークをつけた娘さんに私よりさきに「お嬢さんどうぞ」って言ったらそりゃ尊敬しますよ。 そうじゃなくてその紳士より私が先に譲ったら、その紳士から「先ほどは先を越されちゃったね。その行動力尊敬するよ」と言われたら嬉しい。 うれしいから優しくする。優しくすると尊敬される。憧れる。そこにしbr(早めの省略ジョジョネタ

憧れも、がんばりましたも必要ない。それぞれの胸の中にある。 そういう「がんばった記憶が胸の中にありましたね」的なトークを学校長がすればいいのよ。そして、先生わかってらっしゃる。俺たちあのときがんばりましたっていう涙が、わたしたち大人の胸を打つんじゃないでしょうか。

だから在校生と卒業生の挨拶はいらないと思います。 教育委員会にぜひご検討いただきたい。

卒業式っていうのは、式で感動するんじゃないよね? 式で感動するんじゃなくて、それまでの積み重ねが見えるから感動するんだよね? だから、お涙ちょうだいの式をするんじゃなくて、今後はぜひあっさりと卒業式は終わってもらって、写真撮影とか、最後のHRとか、そういうので涙流せばいいじゃないの。

あと、最後の共同作業的な意味で、合唱はとてもよいと思う。 卒業生へ歌のプレゼント、それもいいのではないでしょうか。 歌はね、心を揺さぶるでしょ。言葉より雄弁に語るでしょ。ね。 歌が在校生と卒業生の1曲ずつ、それもピアノじゃなくてテープでいいよテープで。

やれピアノがよくなかったとか途中で止まったとか本当に保護者はやめたげて!!先生だって一生の思い出に一所懸命練習して臨んでの! 少しくらいミスしても優しくしてあげて!わかる!少し音がはずれてしまった曲は感動がそがれるよね!だけど「ミスしそうだな」って思ったらテープにするとか考えるのは経営判断!彼/彼女たちは従業員なの!「失敗しそうなのでやめたいんですけど」って音楽の先生がいえますか?言えませんよね?システムエンジニアだったら「この作業はヒューマンエラーが起こる可能性が高いので自動化したい」って言うけど、音楽の先生だったら言えないんですよ!!!! だから本当に先生のミスを指摘しないであげて!先生、とってもすてきな生演奏を本当にありがとうございます!今回先生が少しミスしたとき在校生の曲が止まりましたね。やっぱり5年生の指揮者じゃ、ピアノのほうを向いてキョロキョロしちゃう。それは仕方ないけど、指揮者には、ピアノが止まっても歌を止めないことを教えないといかん!それが教育やとわたしは思います。

最後に、PTA会長も、まんべんなく全員に向けて話をしようとしないで! 「運動会・発表会、がんばりましたね?」じゃなくて、「いつもうちの息子たちと元気に遊んでくれてる姿を見て、とってもうれしかった」とか言おう!誰の心にも届いてないよ! 「みんなに聞いてほしい」は「誰も聞いてない」だよ! もっとターゲット絞って!「運動会のとき転んだ●●ちゃんを助けてくれたのは、保健委員の△△くんでした。さっと言って大丈夫?と声をかけて、保健室につれていく。きちんと自分の仕事をやってのけて偉かったと思った」とかそういうのほしいです! もっと子どもたちのことよく見て!

村長さんもあんまり子どもと関わることないと思うけど、それなら今からの社会のこととか、村の行政のこととか保護者向けも交えて語ろう!15歳で村から大半の子たちが出ていく、あと3年間でこの村とわかれたとき、この村とどうやって向き合っていくのか考えてほしいとか言おう!

さて、いろいろ書きましたが、本当に小学校のテンプレ卒業式に嫌気がさしております。 今日の良き日、息子と妻は、最後の謝恩会に参加しているので一人喫茶店でこれを書いております。 あと7年すると、一番下の娘が小学校卒業なのですが、それまでにぜひ!ここに書いてあることのほんの一部でも変わっていたら...わたしはきっと驚くし喜ぶでしょう。 そのとき元号はなんなんでしょうね。

今日は平成最後の小学校卒業式でした。 同じように卒業されたお子さんを持つ保護者の皆様。本当におめでとうございます。

今の時代、産んでも自己責任だなんだと言われ、ベビーカーで電車もバスも乗れず、子どもが外で遊んでればうるさいと言われ、ボール遊びをするところもなく、道路にチョークで落書きすれば怒られ、手持ち花火もできず、なんなのこの時代?外遊びで楽しいことひとつもないやん!ブランコもジャングルジムも無限にぐるぐる回るあの遊具もどんどん撤去されて最後にはすべり台と砂場だけになった公園が、近所にどれくらいあるでしょうか。子どもが外で遊ばなくなってもう20年以上が経過しようとしているようです。

小学校では英語やプログラミングが加わり、中学校ではダンスがは加わり、いろいろ変わりゆく中で、子どもたちは育っています。

今日校長先生も言っていました。「勉強に部活に、がんばってください」と。中学生は勉強と部活以外やる暇はないようです。 ただね、ただですよ。先生。わたしは家庭としては、もう少し家庭ごとの特色を出してもいいのではないかなと思うんです。

なので、例えば水木の2日は、14時には家に帰って、保護者と相談しながら自分でやりたいことを探す日にするとか、そうやって時間を少しずつ家庭に返していくのが、いいのではないかなと思います。部活動をする先生の負担の大きさも社会問題となっている昨今ですから、8時に出社したら17時までは社会人の基本ですよ。パーゴですよパーゴ。先生方は給食や休みの時間もかなり少ないので、8時出社で15時までに子どもたちは帰ればいいんではないでしょうか。そのあと先生は休憩と翌日の準備や研修をしたりすると。

いろいろ脱線しましたが、これからも子どもたちの環境がもっとよくなることを願って、終わりたいと思います。 ありがとうございました。

明治という国家から見たアメリカナイズ

明治という国家から見たアメリカナイズ

司馬遼太郎著「明治という国家」を読んでいます。現在第八章で、アメリカ海軍のマハン大佐を訪ねた秋山真之さんの話です。

少し、司馬先生の文章をお借りします。(漢字や改行は本文まま)

 とにかく、アメリカ海軍のやり方は、基本的にはイギリス海軍のやり方から出たものなんですけども、アメリカらしくシロウトが考えた合理主義やアイディアをどんどん出していくところがあって、秋山がみてもずいぶんちがった海軍になっている。たとえば、いろんな軍艦が、順を追って出ていくわけですが、その軍艦の名前は何だといって、その名前は小さく書いてあるだけですからよくわからない。それをデッカイ数字で番号を打って他から識別しやすくする。いま何という軍艦が出ていった、二番が出ていった、五番が出ていった、七番がいま準備しているとか、むろん固有名詞はついているんですけども、そのようにすると、水兵から士官の偉い人まで、その軍艦が出ていく姿が見やすくなる。いわば英国ふうの名人芸というものを否定して、誰でも参加できる考えで海軍をつくっている。  そういうことは秋山のものの考え方をずいぶん刺激するところがあったろうと思います。

「明治という国家」司馬遼太郎著 第八章より

 「名人芸というものを否定して、誰でも参加できる考えで」これがアメリカナイズというものなんでしょうね。システムエンジニア(技術屋さん全般)の世界でもアメリカナイズがずっと続いていて、名人芸ではなく誰でもできることがよいとされているように感じます。誰でもできるということは、すなわちコストダウンなわけで、企業としては経営合理化・生産性のアップなど、良いことはたくさんあります。アメリカの良いところは、こうして全世界に広まっていきました。

 そして、全世界に広める一番先頭を走っているからこそのアメリカ中心世界経済であったわけですが、昨今は(システムの世界では)イスラエルやインドなどの台頭によって、システム開発の現場は少しずつ様相が変わっているように思います。つまり、一番最初は良かったはずのアメリカナイズ(誰でもできる)がいきすぎて、価格競争と高級化が進み、名人芸 or 誰でもできるの二極化に早変わりしつつあるということです。

いま日本では、「SEは誰でもできる」とされているものの、「誰でもはできるような気がするけど、誰もがうまくできるものではない」ということで、あんまり仕事が汎化されていないような状況かなと思います。

RPAは誰でもできないの極みでしょうね。急先鋒のRPAは、とにもかくにも役場などに潜り込み、設定変更だけで数百万というお金を外資に提供して、使えない日本人*1を駆逐していこうと、そういう感じを受けます。RPAで生産性があがるような仕事は、むしろ今まで何回もなくなる可能性があったと思います。これらはコストが見合わないとか、●●さんが考えた仕事だからとかで先送りされていたのではないでしょうか。たぶん、部分的な改修だと数万とか数十万で、決済を嫌がられるんでしょうね。まとめてやってよみたいな感じで。そういう細かいことを改善していく予算は承認されづらいですよね。それをここまで真剣に業務分析をさせたRPAを売る営業さんの努力はなみなみならなかったろうし、結局なにが言いたいのかというと、技術としてはまったく目新しくないものをきちんと着眼して、さも素晴らしいもののように思わせる技術=営業力っていうのは、そういうのをブルーオーシャンって言うんだなって思って、わたしの中でアメリカナイズが技術から経営、経営から営業に行ってさらに技術に戻って一周した感じがあっておもしろかったです。

*1:これは語弊があって、使えない業務を生み出してた人を差し置いて、そういう仕事に従事している人のことを指すことが多いように感じるので困る。

エクストリームプログラミング読了した

エクストリームプログラミング読了した。

エクストリームプログラミングの第二版を読了した。 これまでなんとなく「こういうやり方だったらな」と思っていたことが、現実に体系化されていて、効用も記載されていたので、自分の中で未確定だったものが固まってきたように思う。

エクストリームプログラミングを経営者としての観点で見ると2つ価値観を変えないといけないなと思う。

1つは、自社の開発については、ランニングコストと効果を見ていくことができるので、短期と長期の目標設定がやりやすくなるのではないかと思う。 短期間でデプロイ(毎日かも)できるので、必要機能やバグの修正も早い。これは顧客不満足の解消につながるものだと考えられる。 開発チームは徐々に小さくすべきなどの助言もあり、このあたりはうまくチームを軌道にのせられるといいなと感じた。

もう1つは、他社のための開発で、納品時にお金をもらうスタイルでは、この方式は使えないということだ。 納品までにお客さんの経験値が上書きされてしまえば、もっと良くしてほしいと願うお客さんの欲求が高まるのは自然の流れだ。 だから、単発仕事を段階的に納品していくことは、自分のクビを締めていることに早く気づくべきだった。 早い段階からシステムを見てもらうことは、本当はだめだったんだということに気づけた。 これからは気をつけたい。

ということで、段階的に(毎月とか、3ヶ月に1回とか)お金をもらえない場合は、ウォーターフォール型の検収をお客さんに投げたときに、「仕様面が満ちている」ことに対して、ストーリーが満たされていることをきちんとお客さんに理解してもらわないといけない。

登録ボタンを右ではなくて左にするくらいの画面変更はいいが、ストーリーとまったく関係ない修正を許容しないことを事前に同意させる必要があることを気をつけないといけない。 お客さんも成長するからだ。わたしたちのお金で。

こういうことをかくと怒られそうだけど、お客さんたちは、自分たちの検収能力があるといいう前提で話を進めることが多いけど、わたしたちはお客さんには検収能力がないことを前提としないといけない。そして、検収能力がないお客さんには「おまかせください」と高い金額を見積もり、検収能力があるお客さんには「それは最初の要件になかった」と追加工数をもらわらないといけない。

エクストリームプログラミングをやっていける現場は、一昔前では「レベニューシェア」という形で実現されていた方法を、「きちんと支払ってね」とやってくれるような現場でないといけないのだなと。なぜかというと、開発はリスクだけど、失敗は利益だからだ。失敗してリスクがあるのは開発チームだけで、レベニューシェア的な利益とは、売上だからだ。 失敗からも利益を得ないといけないのに、片側だけリスクをとるのは均衡がとれていないだろう。

いろいろ書いたけど、エクストリームプログラミングを読んで良かったと思う。 次に KAIZEN JOURNEY を読んで、最終的に自分たちの仕事に落とし込んでいきたいと思う。

現代日本における自己実現教育

現代日本における自己実現教育

「将来の夢は、サッカー選手です。」

と息子が1/2成人式なるもので言っていたことを思い出す。

サッカー選手を夢見るということは、それ以外にいい職業・いい夢がなかったということでもある。

ここからは大人の話だ。

サッカー選手を夢見ている少年は、きっと夢中でサッカーをやっているに違いないと思うだろう。しかし、現実にはそうではない。

  • 毎日ボールとふれあっているか?NO
  • 毎晩柔軟体操をしているか?NO
  • サッカーの日本代表戦を食い入るように見ているか?NO

じゃあなぜサッカー選手を夢見るのだろうか。

結論としては、これは教育として夢を探させているからだと思う。

「なにになりたいですか?」には、答えが必要なのだ。「まだない」という回答は許されず、もっと自分と向き合おうねと教えられる。夢のない子は、悪い子なのだ。そのために「サッカー選手ならいいかな」という妥協案なのだと思う。

実はこれは、高校や大学への進学時に、もう一度聞かれる。夢や目標だ。夢や目標を叶えるために、高校や大学に行くのだ。

では、夢や目標を叶える理由以外では高校や大学に行ってはいけないのだろうか。

今の時代ならば高校までは普通科に行けばいいと思う。 だけど大学には普通科はない。

ここからは個人的な考え。

大学であれば、「ちょっと好き」くらいの学科に行けばいいと思う。 なぜなら、学ぶという行為は、視野を広げるからだ。

ちょっと好きくらいでも大学に行っていいと思う。 ただ、考えてほしいのは、大学にはお金がかかるのだ。

昔々、明治の初期の頃、お金がない人は軍の士官学校に入ったものだ。 だから、お金がない人は、ちょっと遠回りだけど学ぶことができるところをさがすのがいいと思うし、なんなら学びながら働けるところが良いと思う。

わたしには高校2年生の娘がいるが、そろそろ進路でドキドキし始める頃だろうと思う。

将来に不安のない人はいない。 だけど、いま一番好きなことを、身近に感じられる学校・職業を選んでいけば、幸せでいられることは間違いない。

ダサい下着

ダサい下着

昨日の夜から火曜日まで妻が仕事のために東京へでかけている。

出発前にこういう会話があった。

私「わたしがあげたお小遣いで、若い男に貢がないようにね」

妻「大丈夫、すごいダサい下着しか持って行ってないから」

ふむ。

わたしは理系なのでこう思う。 あなたがダサい下着をはいていても、若い男にお金を渡すことはなくならないし、もしかしたらその男がホ別苺の代金だと思って、妻をおもてなしすることも考えられる。

女性からするとダサい下着は、最後の防衛ラインなのだろうか。 ダサい下着を見ても、男の昂ぶりは抑えられるどころか、「下着がダサいなら、脱がせばいいじゃない」の精神で、ますます昂ぶるのではないだろうか。

妻よ。 きちんとした下着をつけて東京で活躍してきてほしい。

新聞の頭高背低(とうこうせいてい)

新聞の頭高背低(とうこうせいてい)

今日の新聞を読んでいるときにタイトルの「頭高背低」がひらめいた。 一面から高齢者向け、うしろに行くと子どもの記事という意味だ。

一面記事は、

「保護者の体罰、法規制」 「自動運転サービス、高齢者の足へ」 「新出生前診断、施設増加へ」 「スマホとにらめっこ」 「町長選告示」

とならんでいる。

総合面は国際情報と「死刑制度議論、深まらず」

13面は有名人の追悼記事

19面から県内の記事で、ここからは年寄りと子どもが中心になる。 24面の飛騨の記事でやっと猟師の上屋さんが30歳台だった。

個人的には、この新聞の30, 40歳台の世代の登場率の低さは異常ではないかと思う。 新聞記事も高齢化が進んでいる。 書く方も高齢化しているのだろうか。 記事の選定は売上に直結するからだろうか。

自分が30~40の世代だからこういう風に思うのだろうか。 毎日、私たちのことは無視して「今日のニュース」が作れらているような気がしてならない。 岐阜新聞は特に高齢化が進んでいる可能性があるし、少子化が進んでいる可能性がある。 小学校で地元の郷土料理の教室があったことを伝えるのは、それも読みたい人がいるかもしれない。 だけどもっと伝えられることがあるのではないだろうか。

先日、とある記者が、「世論を代表している」と話題になった。 社会を動かしている人たちをピックアップしないのであれば、世論とはなんだろうか。 あなたたち記者の目線の先にしか世論がないのであれば、わたしたちの世代の意見の薄さが気がかりだ。